もどる

9R デビュー戦

陥ってしまった。確かに中谷さんはそういう奇襲的な戦法をよく使うのでよく考えたらこれも当然のことなんだけど、組み合ってから寝技へ移行というスパーリングのパターンが染み付いていた私には何が起こったのか全く解らなかった。
 中谷さんは倒れている私を押さえ込んできた。レフェリーがフォールのカウントを取ろうとしたので私は慌てて肩を跳ね上げた。と、次の瞬間、私の腕が中谷さんによって一気にまっすぐ伸ばされた。フォールの体勢に入ったのはおとりだ。中谷さんは最初から腕ひしぎ逆十字を狙っていたんだ。私は慌ててあいた方の手を伸ばしてロープを掴んだ(位置的にロープが近かった)。あやうく秒殺を免れた私だが、中谷さんはロープのそばだということを承知の上で関節を狙ってきたのは明らかだった。つまり、今ので決めるつもりは最初から無かった、ということだ。中谷さん的に言えば客を盛り上げるための中谷シェフによる前菜(オードブル)のようなものだ。案の定、私が立ち上がって間髪いれずにタックルを狙うと、中谷さんは無防備に倒れる。寝技に絶対の自信があるから、わざとタックルを切らずに正面から受けたわけだ。客の目には“私のパワフルなタックルに中谷さんがなすすべも無く倒された”ように見えただろうけど、現実は全く逆だ。
 もうどうしていいのかわからないっっ!
 不特定多数の客の目に水着姿を晒した羞恥心なんて完全に頭から飛んでいた。自分のことでいっぱいいっぱいだった。中谷さんがわざと見せる隙を突いて攻撃するのが精一杯で、自分から活路を見出す事は全く出来ない状態になっていた。なのに客席は沸きに沸いていた。デビューしたばかりの新人が中谷に果敢に立ち向かっている、という風に見えたからだ。既に中谷さんの手の平に乗せられていることに気付いたのはマニアぶったファンくらいで、素人ファンの目には私が優位に試合を進めているように見えていたのだ。
前ページ
次ページ